田中 聡

profile

所属球団
元日本ハムファイターズ
元阪神タイガース
氏 名
田中 聡(たなか さとし)
ポジション
生年月日
出身地
内野手
1977年8月27日
滋賀県

【球歴】

出身中学(出身チーム)
京都ヴィクトリーズ(ボーイズリーグ)
出身高校
尽誠学園(香川県)
出身大学
法政大学
その他出身チーム
米独立リーグ バレー・ヴァイパース

【プロ野球歴】

プロ野球入団
2000年 ドラフト7位 日本ハムファイターズ
所属球団( )内は背番号
2001年~2002年 日本ハムファイターズ (41)
2003年        阪神タイガース     (59)
引退
2003年

【プロ野球(NBA)通算成績】

通算:3年
試合数 打数 得点 打点 安打数 二塁打数 三塁打数 本塁打数 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 打率
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000

next stage

2004年~2008年  マリーナ レンタルボート業(自営業)
2009年~現在   野球スクール事業
2012年~現在   野球用具メーカー「Battle EXA」(バトルエクサ)
2013年~現在   大久保バッティングセンター オープン
【 店名 】
大久保バッティングセンター
【 住所 】
兵庫県明石市大久保町大久保町451-1
【 営業時間 】
10:00~21:00
【 定休日 】
なし
【 電話番号 】
0120-810-814
【 地 図 】
場所はコチラ
【 WEBサイト 】
http://battleexa.com/concept.html

interviews

「子供の頃の夢はプロ野球選手と社長になる事でした(笑)!!」

  • 真木
    「どうも、久し振りだね~。なんか現役を引退してからもいろんな事に頑張ってるみたいだね。よく名前を聞くよ。こんな立派な設備も揃えちゃって~」
  • 田中
    「そんな事ないですよ。ここも最近オープンしたばっかりなのでこれからなんですよ」
  • 真木
    「田中君とは法政大学の先輩後輩になるから大学生の頃はいろいろ嫌な思いもさせただろうけど、今日はその辺も含めて田中君の野球人生を振り返ってもらうのでよろしく。早速だけど野球を始めたのは何歳くらいからだったの?」
  • 田中
    「小学校の4年生でしたね。ウチは4歳上の兄がいて、その兄が野球をやってたからそれでチームに入るようになりましたね」
  • 真木
    「その4年生でチームに入る前も友達同士とかで野球をして遊んだりもしてた?」
  • 田中
    「いいえ、全くです。それまで野球は好きじゃなかったんですよ。4歳はなれてたら兄にはかなわないんですけどいつも争ってましたし、父親もいつも兄の野球を応援してたので自分が始めるまでは野球を好きとは思ってなかったですね」
  • 真木
    「そうなんだ~。じゃあ野球を始める時は自分の意志で始めたわけじゃないんだ?」
  • 田中
    「そうですね。最初は隣の学校のサッカーチームが強かったのもあってサッカーも考えたくらいでしたね。野球を始めるようになっても、とにかく兄を越えたいとか、父親に活躍した報告が出来るようにって事ばっかりを考えて必死でしたね」
  • 真木
    「そうなんだ~。その時点でもう既に反骨精神があったんだね。それでその目標は達成できたの?」
  • 田中
    「兄はチームでもキャプテンをやったり、そのチームも強かったりで野球が上手だったんです。だからどうしたら兄よりも上にいけるのか?を子供ながらに必死で考えてましたね。兄は中学では学校の野球部だったんです。だから僕は中学生になったら硬式のクラブチームでやるんだって、そんなところでも対抗心がありましたね」
  • 真木
    「じゃあ硬式チームに入ったくらいだから練習も熱心に取り組んだんだ?」
  • 田中
    「それが・・・、家は滋賀県なんですけど、滋賀の方で練習する事も多いからって聞いて京都のチームに入ったんですよ。でもやっぱり通うのが遠いって言うのもあって、練習を休む事も多くなってしまって。そうするとやる事もないから学校のバスケ部に入ったりして、野球をやったりバスケをやったりって中途半端でしたね。しかも、バスケって野球とは違って坊主頭でもないし、体育館とかの室内でやるし、隣では女子の部活もあったりで、バスケって楽しいな~とか考えてましたね」
  • 真木
    「ハハハ、中学生とかだったら必ず考えてしまう事だね~。でもそんな中学野球生活を送ってて名門の尽誠学園に行けたんだよね?」
  • 田中
    「中学の頃は体だけは大きかったので、試合になると活躍してたんですよね。それでたまたま試合のときに尽誠学園の監督に見てもらって声を掛けてもらったんです。同じくらいの時期に学校の方のバスケ部でも推薦で高校に行けるって先生に言われたんですけど、バスケでは将来稼げないって思って野球を選んだんですよ」
  • 真木
    「中学生にしてもうそんな考え方をしてたんだ?尽誠学園以外に迷う学校はなかったの?」
  • 田中
    「他に何校かあったんですけど、その時はとにかくプロ野球選手になる為には甲子園に出なきゃダメだって思い込んでて確立を考えたんです。過去の甲子園出場回数とかから、他の迷ってた高校よりも尽誠学園が一番確立が良かったんで確信して決めましたね」
  • 真木
    「すごいね。バスケとの迷いだったり高校の決め方だったり、知恵の働く中学3年生だね~。でもそのお陰で尽誠学園ではしっかり甲子園に出場したもんね」
  • 田中
    「そうですね~、でもドラフトには掛かりませんでしたけどね。常にプロになる事を考えてたので高校卒業してからの進路も、プロになる為にって事で考えてましたね。最初は早稲田大学の野球のセレクションに参加して結構良い感触だったんですよ。でもその後に法政大学もセレクションを受けて、プロ野球選手の多さを考えて早稲田ではなく法政に行ったんです」
  • 真木
    「そこで残念な事に俺と巡りあってしまったんだ~。それでその法政大学はどうだった?」
  • 田中
    「最高でしたよ~!(笑) でも本当に2年生から試合に出させてもらったり、時には4番を打たせてもらったりで良い思いもさせてもらいましたね。その反対に、リーグ戦で試合に出てたかと思ったら、その次の試合ではベンチからも外れたりとか浮き沈みが激しかったですね」
  • 真木
    「経歴的には、大学を卒業してすぐにアメリカの独立リーグに行ってるんだよね?それはどういう経緯なの?ドラフトに掛からなくても社会人に行ったりとかはなかったの?」
  • 田中
    「4年生の春の時点で山中監督と進路の話をして、僕は法政にはプロになる為に来たつもりなので就職活動をするつもりはありませんって生意気な事を言って社会人野球へは行きませんって言ってたんです。そんな事を言ってたもんだから何とか結果を残すしかないって事で必死だったんですけど、秋のリーグ戦前の夏のオープン戦ではチームトップの成績を残して、秋季リーグ戦開幕の東京大学戦では4番でスタートしたんです。そしたら、相手が左ピッチャーで4打数ノーヒットで終わってしまって、また次の日からベンチも外れてスタンドでの応援になってしまって・・・。それで大学野球が終わりましたね」
  • 真木
    「マジで?スタメンから外されただけとか、リーグ戦の後半には戻ってきたとかも無く、それで終わり?」
  • 田中
    「そうなんですよ。そんな成績で終わったもんだからもちろんドラフトに掛かる事もなく、社会人の道も自ら絶ってたのでどうしようかと思ってたら知人にアメリカ独立リーグのトライアウトを受けれるって事を教えてもらって、通訳もなしで単身アメリカに渡ったんです。そしたらたまたまレフトにホームランを打っちゃってその日のうちにそのチーム入りが決まったんです」
  • 真木
    「俺も海外の独立リーグの経験はあるけど、日本とは比べ物にならないくらい厳しい環境だったんじゃない?」
  • 田中
    「そうですよ。選手の入れ替わりが激しくて、常に去っていく選手と新たに加わる選手がいましたね。同じメンバーで1ヶ月戦う事は無かったんじゃないですかね~。そうこう言ってるうちに僕も夏くらいにリリースされてしまったんですけどね。それで日本に戻ってきて、また秋にアメリカのトライアウトをチャレンジしようと思っていろんなとこで練習をさせてもらってたんです」
  • 真木
    「あ~、俺もそれ経験あるな~。どこのチームに所属してるわけでもなく、練習場所や環境を探すのって大変なんだよね~。でも、そういう苦労を知って自ら経験することで、やっぱり野球がやりたいとか、それまでの恵まれた環境のありがたさが感じる事が出来るんだよね。それでトライアウトはどうだったの?」
  • 田中
    「結局、渡米する前に日本のプロ野球の一般公募の入団テストがあって、腕試しみたいな感じで何球団か受けて回ったんです。そしたら受ける球団全部、1次テストに合格して秋のキャンプに来るように言ってもらったりしてて、最後に日本ハムのテストではその日のうちにドラフトで指名するからって言ってもらって、僕もキャンプ招待の話を断ってでもよろしくお願いしますって即答してました」
  • 真木
    「そうなんだ~、それで念願のプロ野球入団の夢を叶えたわけだね。実際プロの世界はどうだった?良い思い出とか悪い思い出とかある?」
  • 田中
    「良い思い出でもあり悪い思い出でもある、自分の中でもすごく印象深い事件があったんですよ。プロ2年目の出来事なんですけど、1年目は2軍ではそこそこの成績を残せてたので、2年目の春季キャンプでは1軍スタートだったんです。それで開幕前のオープン戦の途中で2軍に落とされてしまったんですけど、1軍でスタートしてたから2軍に落ちても普通に出場機会をもらえると思い込んでたら、なかなか試合で出してもらえないんですよ。試合中に代打の準備しとけよって言われても結局代打でも出してもらえないって言う事がずっと続いてて、それならと思って試合開始から試合終了までずっとバットを振って代打の準備をしていても、それでも使ってもらえなくて」
  • 真木
    「それは選手からしたらストレス溜まるな~」
  • 田中
    「そういうのが続いてたから辛抱できなくなって、最終的には準備も何もしなかったんです。そしたら試合が終わってコーチから頭を叩かれたからやり返して取っ組み合いのケンカになったんですよ。それで謹慎にもなってしまって。でも、その謹慎明けに代打で行ったときにいきなりバックスクリーンにホームランを打ってやって見返してやりましたね。それがメチャクチャ気持ちよかったんですよ」
  • 真木
    「見返してやったって気持ちにはなれたんだろうね~」
  • 田中
    「でも、それが原因かどうかは迷宮入りですが、そのシーズンを終わって日本ハムを戦力外になっちゃったんですよ」
  • 真木
    「日ハムと翌年には阪神と戦力外になってまだまだ若かったのに現役続行の道は探さなかったの?それこそまたアメリカとか海外でプレーする事も出来たんじゃない?」
  • 田中
    「正直言うと、その年齢で戦力外になって、ここから頑張って1億円プレーヤーになれるのかな?って考えた時に確立が悪いだろうなと思って、それだったら野球をキッパリ諦めて今度はビジネスで頑張ろうって思うようになったんですよ」
  • 真木
    「それで今のこのビジネスマンがある訳だ? で、実際はどう?野球から離れて仕事をするようになって」
  • 田中
    「最初は父親の仕事でもあったマリーナのレンタルボート業をやったり、飲食店を展開したりいろいろとやりましたけど、やっぱりいろんな事があって野球とは関係の無い仕事は現在まで続いてるのはないですね。反対に小さな規模から始めた野球スクールの事業は今でも続けれてもいますし、それだけじゃなくてそこから発展させて野球用具のメーカーもやるようになりましたしね。やっぱり野球の事に関しては自信を持って仕事が出来るからやり甲斐がありますね」
  • 真木
    「すごいよね~。野球スクールからこんな立派な施設も立ち上げて、バットの製造、グラブの製造、それ以外にもスポーツに関する講演活動とかもしてるみたいだしね。なかなかアグレッシブだよね~。じゃあ最後に、今教えてる子供達以外にも全国の子供達に何かメッセージをお願いできますか?」
  • 田中
    「う~ん、いろんな人に言ってるんですけど、やっぱり野球をやってる以上楽しんで欲しいと思いますね。一般的には、こうすれば上手になるとか、こうしたらプロになれるとか言う方が多くて、なんとなく締め付けの感覚がきつい気がしてるんです。でも反対の発想で、こうしないとプロにはなれないんだよとか、ここまで出来る人じゃないとプロにはなれないんだって事を教えてあげれば、子供だとしても自分が出来るのか出来ないのかの判断が出来ると思うんですよ。それで、俺にはそこまでは無理だと早く気付く事が出来ると、じゃあ次の目標は何なのか?野球を純粋に楽しむ事が出来るんじゃないか?と思うんです。僕自身もそうですけど、やっぱり野球をやってるからって他の事が出来ないって言うのは良くないと思うんです。勉強もしなきゃいけないし、野球以外の事も興味を持って経験して行く事は大切なことだと思いますね」
  • 真木
    「確かにね。昔は野球ばっかりやって野球しか出来ないって人が多かったような気がするけど、今からの時代そんなんでは世間では通用しないし、野球人として見てもいろんな事が出来る人の方が野球にとってもプラスになると思うね。まだまだ聞きたい事はたくさんあるんだけどそろそろ時間も時間だしこの辺で終わりにします。今日はオープンしたばっかりの忙しいときにありがとう」
  • 田中
    「いえ、こちらこそわざわざ遠くまで来てもらってありがとうございました」
  • 真木
    「じゃあお互い野球選手の第二の人生として胸を張っていけるように頑張ろうな」
  • 田中
    「ありがとうございます」
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